倭月愛々 過去ログ

 

2004/03/12 (金)

もう半月

早川町に居ることに気が付く。
町内ベンチャー応援事業の報告会の手伝いから始まって2000人のホームページの取材、起稿、入稿、フィールドミュージアムのツーリズムプレスの校正、次号以降の企画会議、インターン学生が企画した死臭のする町内観光拠点(南アルプスプラザ)のリニューアル工事の手伝い。そして毎晩遅くまで呑み。スケジュールに追われて東京に居るときよりも気忙しいのはこれいかに。

途中一日だけ東京に戻ったのが良いリフレッシュになったせいかこの1週間が短く感じる。
やっと今日の午後、自由になる時間があったので、これも取材の一環なんだけども、という律令制に由来する珍しい名の集落に。裏山に土肥、佐渡と並び立っていたと言われる金山があり、その精錬場や湯治場の跡を目指す。地図で見て想像はしていたが、笊ヶ岳の昔の登山道。特にいまはマニアックな登山者か山師くらいしか使っていないようで、荒れ放題。冬なのでかろうじて道を見付けることが出来た。(何度もそびえ立つ岩壁や沢、漫画に出てくるような絶壁、ガレ場に行く手を阻まれて、そのたびに何十メートルも急な斜面を上り下りしては正しい道を探す。

80歳くらいのお年寄り達の記憶風景は山に入れた元気な頃で止まっているので、ほんとうに行けばあるのかが不安であったが、所々に、唐突に出現する人の手による石垣などの構造物や、沢沿いに鉱石か材木を下ろしていたときの架線の名残の太く錆びたワイヤーが勇気づけてくれた。

バイクだったので砂防ダムを管理する道の終点まで1キロちょっと入ることが出来たが、それでもそこから1キロ弱、高低差250メートルくらいを沢を渡り岩壁を上ってたどり着く場所。
よくもまぁこんな場所にというところに幾つもの施設跡が散在。
こんな山奥の危険なところに二階建て六間もあるりっぱな湯治場があったなんて信じられない。

しかも集落はずれの金山の精錬所のあったところに移築され今なお建物は存在する。あの山奥からこれを下ろしてくるなんて想像できない。
昔の人の価値基準や時間の流れはいつも想像を超えたところにあって面白い。

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