倭月愛々 過去ログ

 
2003/02/24 (月)

後田多味噌しょう油製造所

何日か前に川平を訪れたときにたまたま見つけ、その雰囲気から一度訪ねてみようと狙っていた後田多味噌しょう油製造所に3度目の正直(けっこう不在の時が多い)でお邪魔させて貰える。

午前中にあらかじめ電話して置いたので、よく来た
ねぇと歓迎してくださる。
シークァーサーのジュースとお茶と味噌とその味噌で漬けたパパイヤの浅漬けという盛大なもてなしに恐縮。

手前が次回造る味噌の原料米。一回で100キロほど使う。四季の穂という地元の米。
奥のプラスチック樽が後述の旦那さんがプレゼントしてくれた仕込み樽。

黒島の牛祭りでも活躍していた大鍋(名前を失念)。
祭りで使うので、字ごとあるいは集落ごとにいくつか常備しているそうです。
これを使って、米、豆、麦を煮込む。

しま醤油の仕込み樽。
麦で麹を造り、煮た大豆と塩とともに3年寝かせます。

樽から出してもろみを味見させてくださる。
いわゆる醤油の香りに加えかなり酸っぱい発酵臭が来る。
ほのかに暖かい。
飲むと酸味が強いクセのある味。
この絞り汁に昆布と鰹節を加え煮出し、寝かせるとしま醤油の出来上がり。
たまたま醤油がなかったので、近くの仲間商店で求めたが昆布と鰹を加えることでまろやかになって酸味が和らいだ感じなっていた。

後田多 保子(shiitada yasuko)さんは代々味噌造りの家だったわけではなく、味噌を造り始めたキッカケは28年前に婦人会の会長さんが集落の女性を集めて昔ながらの味噌作りを講習したことが始まりであった。
昭和50年代といえば高度成長期で石垣でも大手の味噌が幅を利かせるようになって、手作りの安全な食品が減っていることに危機感を感じて味噌造りをはじめる意を決したそうだ。

かといって、主婦であった保さんにお金があろうはずもなく、息子達の進学費用なども必要な時機に売れるかどうかも分からない味噌造りに夫は反対で金銭面での協力は一切無い。
困った保さんは公庫に融資のお願いに行くと、大手の味噌がいっぱい出てるのに今更味噌造りなんてやめた方が良いと説教される。

保さんはこれで諦めることなく、手書きでで収支見積書をきっちり作成してもう一度担当者の許へ。
それを硬い表情で読み終えた彼は、お母さんひとりでこれを作ったのか?と訊ね、よくやりましたねと労をねぎらい事業資金の融資が決まったそうだ。

今は亡き旦那さんは造園業を営んでいたので味噌造りを手伝うことは無かったが、ある日、手伝うことは出来ないけれどと言って仕込み用のポリ樽をひと揃いプレゼンとしてくれた。

その後、このような昔ながらの味噌が珍しがられ口コミで評判が広まり県商工業賞を受賞するまでになり、今では、石垣の公設市場をはじめ空港の土産物売り場でも売られるくらい石垣を代表する味噌になる。
いまは、近所のおばぁ達に手伝って貰い月に1,2度味噌の仕込みを行っている。

保さんは近くの御獄(on)のツカサ(神司のようなもの)だったが足を悪くしたので昨年秋に引退した。23歳の時にくじ引きで3回続けて負けて泣く泣くツカサになったが、年に何十日にも及ぶ勤めの傍らで出来る味噌造りに巡りあったことに感謝しているという。


石垣島の中でも川平は御獄の数が多く、余所者への立ち入りを禁じてしっかりと管理しているという印象があった。
また、集落の入口には道路脇の電柱を使って注連縄が渡してあって、宗教が今なお深く根ざしていることが伺えた。

鰹や鮪やジャコなんかに胡麻やピーナッツを加えて多めの油で炒めて最後にこの味噌を加えて作る油味噌は秀逸です。
幸せな一品。

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